大企業の一人当たりの利益と付加価値は、何故、個人の所得の総和より大きいのでしょうか?
企業の決算書で公開されている営業利益から、WACCを割り出して、その生み出している付加価値を、従業員数で割ると、その企業の一人当たりの生産性を算出することができます。
生産性評価をすると、上場している優良企業では、素晴らしい数字がはじき出されます。
この数値は、明らかに、従業員一人あたりの総所得を大きく上回ります。
つまり、従業員一人の生み出す生産の和と、企業の総生産性の関係は、「1+1=2」ではないのです。
何故、企業というものは、それを構成している個人の総所得(つまり個人の生産性)の和よりも、大きな付加価値を生み出すことができるのでしょうか?
「1+1=2」でなければならないと考えた近代科学と唯物論
近代の社会科学では、付加価値を、「1+1=2」でなければならないと考えました。
その最後の学者が、カール・マルクスやエンゲルスで、彼らの科学的社会主義は、その結果として、企業は生み出した付加価値をすべて労働者に還元せよ、それをしないのは、資本家による搾取であるというイデオロギーを唱えました。
現代の経営学は、この「1+1=2」でなければならないという誤謬を否定するところから、スタートしました。
P・ドラッカーは、マルキシズムを強く批判し、組織とそれに対するマネジメントが産みだす企業の付加価値を、強く肯定し、必要なものだと唱えました。
「要素還元主義」の限界が起きる事例 ~クラシック音楽で考えてみる~
企業の生み出す付加価値が、「1+1=2」ではないことは、組織とそれに対するマネジメントのチカラであるとともに、その付加価値の値付けが、「顧客の購買意欲」によって規定されることも原因です。
マルクスが唱えた近代社会主義論は、唯物論哲学によっています。
唯物論は、モノを構成する物資は、必ず分解して、要素の単位にわけられ、モノとは、その要素が組み合わされたものであるから、すべてのモノは要素に分解が可能なのだ、と考える考え方を生み出します。
企業も同じで、それもまた、ヒトに分解されるモノに過ぎず、従って、その実態は、労働者という要素にすべて、還元されるのだ、と考えたのが、マルクスの社会主義でした。
こう考えれば、企業が生み出す価値は、すべて労働者の労働力の和に一致するはずであり、労働者にすべて還元されるべきであって、それを労働者に還元しない資本家は、搾取者以外の何物でもなくなるわけです。
この近代科学的社会主義が誤っているのは、例えば、私たちが、クラシック音楽を聴くときのことを考えればよいのです。
クラシックのオーケストラは、当然、各楽器の演奏者の要素によって構成されています。
ところが、私たちが、仮に、その各楽器のパート練習を聴いても、そこには、何の感動も美しさも芸術的要素も感じないわけです。
その各楽器があわさり、編曲され、指揮者によって、オーケストラ演奏に仕上げられると、素晴らしい感動を生む、芸術的な演奏が出来上がるわけです。
ヒトの心が感じる価値は、各楽器の演奏の総和ではないのです。
オーケストラの演奏になって、はじめて生まれる価値なのです。
これこそが、シナジー効果と経営学上、言われるものの正体です。
企業が創り出す付加価値(生産性)の正体は、消費者の感情が生み出すもの
オーケストラを構成する各楽器の演奏が合わさると、個々の楽器の演奏の総和を遥かに超える感動をヒトの心に残す理由と、企業の付加価値の総和が個々の社員のチカラの和を遥かに超える理由は、同じです。
企業が生み出す付加価値は、消費者の心が生み出す購買意欲によって構成されているのです。
企業の生み出す付加価値は、決して、労働が積みあがったものではなく、その成果である商品とマーケティングによって、消費者や消費企業の購買意欲が刺激され、それによって、支払われる価格から、仕入れや経費がひかれた利益に一致します。
その結果の生産性が、労働者の生産性の和を遥かに超えるため、組織にシナジーが生まれると認識されるのです。
組織の付加価値は、ヒトのもたらす労働の和で成り立っているものではありません。
ヒト・モノ・カネが生み出す消費者が認める価値によって成り立ちます。
この点を忘れ、ヒトが組織の付加価値を生み出す目的的行動の基に統合されていない組織は、成長を大きく減退させ滅んでいくのです。
このヒトが組織の付加価値を生み出す目的的行動を、P・ドラッカーは、マネジメント(経営)と呼び、それこそが、企業にとって絶対的に必要なものであると説きました。
ここが、現代の経営の出発点となりました。
以上、参考になれば幸いです。
続く